食へのめざめ

Asan Service Co.,Ltd.
食へのめざめ

それは私にとって強烈な出来事でした。10才の時、叔母の家に用事で行った時のことである。 秋の頃だったと思います。夕食に今まで食べたことのない、白い御飯を山盛御馳走してくださった。 この世の中にこんなにも美味しい食べ物があったのかと思い、私は食物を一生の仕事にしたいと思いました。 たぷん叔母は山の中の私の生家では、米が無いので食べざかりの子供に田畑のある叔母の家で白い御飯をたべさせて下さったのだと思います。

食へのめざめ

私の生家は現在の山梨県東八代郡一宮町市之蔵、浅間村(旧御代咲村)です。なんとも右がかった村で生まれたものです。 すぐ隣は浪曲でおなじみの黒駒村で、昔からどちらからと言うと仁侠的な土地柄でありました。
現代は桃の里で日本一の桃の産地ですが、私の生れた項は養蚕が盛んで生家では養蚕の種と、林業を代々家業としていました。 私は、父富徳、母あえの子供7人中の末子として1935年11月1日生れ、その日は熱田神社の祭典の日で熱と名付けたとのことであります。

食へのめざめ

祖母の弟は東京で浅草-新橋間の地下鉄を開業した早川徳次で子供が無く、私のすぐ上の姉が養女に行っていました。 男子もほしいとのことで、私が5才の時、祖母に伴われ東京に行かされましたが、どうしても都合の生活になじむことが出来ず、 小学校に入学時に田舎へ帰ってしまい、御代咲尋常小学校に入学しました。

食へのめざめ

当時の田舎での子供は長ズボンに草履が普通でしたが入学時の写真を見ると、私は半ズボン、 ストッキング、革靴という東京スタイルのとってもハイカラな姿でありました。 小学校時代の思い出は、隣村黒駒と、毎日のように金川を挟んでの喧嘩でした。 私はガキ大将で投げやすい小石を集め相手の陣に投石するのです。 いかに遠くの相手に投げることが出来るか、道具を作ったりして、研究したものです。 私の頭に今もあるキズは相手からの投石でできたものです。私の陣営には1年上の現在、 資生堂社長の弦間明氏もいました。なつかしい思い出です。

食へのめざめ

父母は、家業の林業に専念するかたわら、私の幼少3才~5才頓(戦前)村長を長く勤め、口ひげを生やし、甲府市でのお茶屋遊びもさかんでした。 子供の私もキレイなお姉さん(ベンベ姉ちゃん)達におもちゃを買ってもらい家に居るよりお茶屋の方が多かったように思います。 3才ぐらいからお茶屋遊びをおぼえてしまったことになります。戦後は、農地開放にあい、 その後は特に山の植林に専念するようになりました。晩年は昭和天皇に従って、 緑の週間で植林Lたりして勲章をいただいた父でした。
母親は隣村の岩崎村(現勝沼町)の生れで祖父は明治10年ワイン作りの先駆者高野正誠、 25才でフランスブルゴーニュに渡ったハイカラさんでしたので母も近代的な人でした。 私は小学校の頃は悪太郎でした。外で喧嘩して泣いて家に帰ると家に入れてくれません。 負けるようでは男では無い、勝つまでもう一度やって来いと。それからは一度も泣いて帰ったことはありませんでした。 又、母の口癖は他人に甘えるなと食べるものを残さず食べなさい、残すと目がつぶれますよ。 でした。この目がつぶれるよが、私達兄弟が皆糖尿病にかかった原因ではないかと思われます。 今の絶食時代では残さないと目がつぶれるよ、ですよね。子供の教育方針、 躾は厳しかったですが学問の方は先生におまかせで一度も学校に来た事もなく、又、 勉強しなさいとも言いませんでした。 このようなユニークな父母でしたので私達兄弟は皆、 普通よりどこか変わった人達で毎年2月に従兄弟会を開いておりますが、 80才になるのにダンスに生甲斐を感じ若い人にもてて困ると言う長姉を初め、糖尿病で目が見えないのに、 ギターとハーモニカを上手に使って老人ホームに慰問に出かける兄。75才から墨絵を始めた姉、19才でミスになり、 今では俳藷にこっている姉。皆それぞれに楽しく日々を過ごしております。

食へのめざめ

終戦をへて、小学時代は終わり、食べ物が無い時代に私は食にめざめたのです。 当時の食生活は、米が不足していたので小麦粉で作ったホウトウ(うどん)、そば、サツマ芋でした。 中学時代は学校でサツマ芋作りに励んでいました。御指導して下さった海野徳正先生は今でも私の心のささえになっていただいております。 半世紀もつづくクラス会を2月に開き私も休むことなく海外からかけつけてなつかしい思い出話に花を咲かせています。

食へのめざめ

私より1年上級の高野義男(現東京スタイル社長)が日川の相撲部におり日川に入学すると私も相撲部に入りました。 旧日川中学は蛮カラの男子校でしたが、新制高校になっても女子生徒は少なく、蛮カラで体育が盛んでした。 恩師の村田先生に出会ったのも、そんな時でした。先生の指導はとてもユニークで先生としてではなく仲間として教えて下さり、 先生を頂点に日本体育界に多くの弟子を出しております。相撲では若・貴を出した高校の監督。 ラグビー界では全日本の多くの選手。重量挙げのオリンピック選手。プロレスリングの鶴田。 サッカー界での全日本監督等です。私は二年生の時、体重75kgLかなく相撲での限界を感じラグビー部に移り日川のラグビーの基礎を作りました。 二年生になると進学の進路を定めなければなりません。食の方面に進むには、まず世界の食物を見学しなければならないと思いましたが、 当時は飛行機はまだ少なく船で行くしかありません。それには船乗りになるのが一番早道と思い担任の丸山先生に相談しました。 当時の東京商船大学はとても志願者が多く、君の数学の能力ではチョット無理ではないか、 とのことで諦めざるをえませんでした。

食へのめざめ

当時、日本から缶詰が米国、ヨーロッパ向けに輸出されて業界は大いに栄えており、 研究もさかんでした。静岡には農林省の缶詰検査場も有り、水産大学、農業大学を出た人達が集まっており、私も入る事が出来ました。 中には下関水産大学の江羅、松島、大下氏、また、缶からBAG容器に変る研究をした三尾谷氏がおりました。 彼は大塚食品ボンカレーの生みの親です。その後、私が食品に関する特許を得ることに、彼は大きく影響をあたえたのでした。 缶詰を研究し、実習もして、実のある食品知識を若い時に習得しようと思い、静岡県蒲原町にある久保田缶詰の社長、 久保田実氏を頼りました。この人は父が家業としていた水産物問屋を缶詰会社にした人で、みかん、マグロ、竹の子、 栗等の缶詰を生産して従業員200人仕の中堅全社を経営しておられました。氏は私をとても可愛がって下さり色々教えて頂きました。 その一つに私の人生の歩みの中で、実行し、又私のグループ会社の人達を指導している名言があります。 それは"そこにゴミがあったら拾いなさい。ゴミを拾うエネルギーの消耗は少ないけれど、わざわざ掃除するには大変なエネルギーを必要とする。 全ての人が捨てない、拾う運動をしたら世の中美しくなります。特に食品工場ではキレイにすることがバクテリアの発生を少なくするのですよ”です。 久保田氏は1996年82才で他界しましたが、私の人生で心にのこる人でした。奥様は健在で日本帰国時はお会いして昔話をしております。

食へのめざめ

1957年22才の時、生れ故郷の山梨に移り酒造会社に入社しました。当時の世の中は欧米化が流行し町のアチコチにBARが出現し、 カクテルが若い人たちに人気でした。富士醗酵でもワイン、ブランディーを生産しておりましたが、カクテル用の洋酒を生産、 売り出すことになりました。食品の基礎を学んだ私が担当する事になりました。ココアを原料にしたクリームドカカオ、 杏を原料にしたアプリコットブランディー、ネズミサシの実を使ったドライジンなど生産し、 田舎のワイン会社が全国ネット販売して洋酒業界に進出したのです。しかし1963年代になりますと、 世の中は青緑(BAR)から、トルコ(ソープ)に変わり、カクテルの時代は終わり、 飲料はウィスキーの水割りの時代になりました。

食へのめざめ

ちょうどその頃、私の人生に大きく影響をあたえた穂積忠彦氏との出合いがあります。 氏は東大農学部の酒の坂口先生の愛弟子で学生時代から酒、特にワインの指導書(大蔵省出版)を書いた人で、 1997年に他界するまで酒の評論家として活躍しました。氏は1963年富士醗酵に専務として入社し、 私とのコンビで食べる酒や、健康酒の生産研究を始めました。田舎の会社が全国区になるには、 他の酒造会社がやっていない事をやらなければだめです。日本酒では月桂冠、洋酒ウィスキーではサントリー、 ニッカ、ワインではメルシャン等があるが食べられる酒(加工用)は他社が生産していないのでこれを手がければ一番になれる。 加工用では昔から味醂があるが、味醂も酒類で酒税がかかります。 飲料酒に酒税が付くのは理解出来ますが、カマボコ、塩辛、佃煮、ソースに酒税の付いた酒を使用するのは理解出来ない。 そこに着目するのが、この会社の生きる道であると考え生産方法、役所との折衝。 特許問題を解決して1964年ついに日本初の醗酵調味液(保つ味)を世に送り出す事に成功しました。 冷凍加工食品、水産加工、野菜加工業界に広く使用され、他の会社も参入して今では味醂より多い12万KL生産されております。 今でも富士醗酵は業界のリーダー的立場に立っております。

食へのめざめ

醗酵調味液の原料は、米、デンプン、糖類、糖蜜アルコール、食塩です。味醂と比較して酒税が付かない分安い。 酒ではないからどこでも売れる。利点は有りますが、酒類の様に法律で定めた規格が無く、 日本で味醂と同じ成分にしようとモチ米を使用するとコスト高になってしまう等、品値の点で私は悩んで居ました。 そんな時、妻の後見人である自民党の内田代議士(当時厚生大臣)が私をお呼びになり、 タイ国商務大臣から日本国の食糧問題でクレームが有り、商務大臣は僕の東大時代の同級生なので無下には出来ない。 おまえタイに行って見学して来なさいとのこと。それは沖縄が日本に返還されて5年経ち、本土の米を使用するため、 タイ米の輸入が中止になった問題でした。日本国としては一粒たりとも外国からの米は輸入出来ない決まりでした。 私は早速タイ国に渡りました。それまでの外国での仕事は韓国での人参酒の製造、沖縄でのハブ酒、 台湾のウメ酒でしたが、タイ国では米の仕事ですので今まで以上に張切っていました。 まず商務省の案内でウルチ米の産地サラブリ県を見学。食べてみたがどうもピントこない。 次にモチ米の産地、東北のチェンライに政府のヘリコップターで行き、精米工場で早速食してみました。 なんと美味(日本のおこわより甘くかんじる)で沢山食べて同行の役人を驚かせました。 バンコックの役所に帰り早速レポートを書きました。タイ国のもち米は食品加工に使用可能であると。
日本に帰国し内田大臣、会社の堀内社長、穂積専務に報告いたしました。 食べる酒(醗酵調味液)に使用可能又モチ菓子にも加工可能と、しかし当時、会社としては海外投資は出来ない、 どうだ田中個人で初めたらどうかと言うことになり皆様の支援の下、1977年独立し、日本に加工会社SAN FOODS、 タイ国に酒類製造会社SUN FOODSを設立しました。
タイ国の酒類は大蔵省と工業省が独占しており、民間はビール会社位しかなく、いくら商務省の要望で酒類製造会社を設立しても、 なかなか大蔵省よりライセンスが許可されず大変苦労しました。その後ライセンスが1年がかりで許可され、 とりあえず、本味醂の原料になるモチ米を使用した白酒を生産する事にし、 内田代議士(当時自民党幹事長)の線で日本の大手メーカーが引取ることでスタートし、 第一便が日本に着きました。当時モチ米は政府米として食糧庁が管理しており、 このようなもの(白酒)は米を使用しており、これを原料とした場合はモチ米の配分を少なくする。 などとメーカーに圧力をかけてきたました。そこで、大手メーカーは輸入を断念してしまいました。 内田代議士も三木内閣時の幹事長での激務のため急死し、私は目の前が真黒になり、 一時はタイ国から引上げることも考えていましたが、穂積氏日く。「日本は将来農業国ではやって行けなくなる。 かならず近いうちに米はともかく、米加工品は輸入に頼るようになる。それまで苦しくても頑張はりなさい。 」と励まされ、日本で設立したSAN FOODS向塩入白酒、食糧庁の支配下で無い薬味会社向けに細々と生産しておりました。 白酒だけではタイ政府の期待に対してあまりにもモチ米の使用が少ないため、他の商品作りをと考え、 モチ菓子用のモチ粉を日本向に輸出出来ないか研究しました。日本は米、麺、米粉、モチは輸入禁止です。 あるときスーパーの店頭にドーナッツの素を見つけ分析したところ、小麦粉に重曹、 植物油等が入っていて生産地がオーストラリアでした。さっそく税関に行って調査したところ、 関税は高いが輸入可能でした。タイ米を原料にした調整モチ米を日本に初めて輸出に成功しました。 この事業は大手商社も参入し、現在は60,000t位の数量になり、タイ政府に対して、 日本向タイ米加工の責任をはたしたと思います。ちなみにタイ商務省、タイ工業省、 日本通商産業省より表彰していただきました。その後日本はアメリカ、ヨーロッパから農業問題、 特に米についてバッシングを受け日本政府は米は輸入していないが、米加工品は沢山輸入していますよと答弁し、 私の所にも食糧庁のお偉いさんが、もっと米加工品を考えて日本に送って下さいと、お願いに来ました。 時代が変わったのです。穂積氏のおっしゃる通りになり、 日本で使用されている本味醂原料の大部分は海外からの輸入になりました。

食へのめざめ

タイ国で酒造全社、日本醤油会社、日本食品販売、冷凍食品生産会社等を設立し、12年がたちました。 私の頭の中にはいつも食に対する本物志向が有りました。味醂を例にとっても一般の人は米が原料と思っているのに、 使用しているのは醸造用アルコール、モチ米、麹米、糖類となっており、特に醸造用アルコールについては不明瞭です。 これは砂糖の生産時に副生産される廃糖蜜をアルコール醗酵して作ったものなので、 米の酒味醂の中に廃糖蜜が入っているはおかしいではないか、なんとか米からアルコールを作りたいものだとたえず考え、 小レポートを書いておりました。たまたま1988年、私のレポートをベトナム政府の役人が見て、 どうかベトナムで米アルコールを生産してくれないかと招聘され、1989年初めてベトナム国に入国しました。 当時、ベトナムは、ドイモイが1986年にスタートしたばかりでした。タイ国で生活している私から見ても、 昭和の初め頃ではないかと思われました。サイゴン(ホーチミン)の町でも週4日は停電でランプ生活、 車は無く、自転車とパイクばかりです。町は暗く、人民も笑顔は無く、役人が大きな顔をしており大変な国だと思いました。 しかし、私の気に入ったのは、日本と同じ仏教である。国民は勤勉で良く働く、 政治は左であるが政府も資本主義的な考えをしてきている(ドイモイ政策)などで有りました。 私はアルコール事業に投資を決め、政府国営企業のビヤⅡと合弁で会社を設立しました。

食へのめざめ

私は22歳で会社員となり、42歳で独立し60歳まで食に関係した仕事をしてきました。 10歳の頃の第一志望である食での仕事で卒業式を迎えることが出来ましたことは大変幸福だったと思います。 多くの先輩、後輩との出会いが良かったからと思います。 実習時代の故人久保田実氏、富士醗酵時代の故人堀内社長、 私の人生の大きな力になって下さった故人穂積忠彦氏,独立してからの元キッコーマン役員の堀切氏、 後輩の現サン.フーズSANFOODS副会長和光氏、元TNK社長和田氏、SUNFOODS元社長の貞弘氏、 現SUNFOODS社長の大村氏、ベトナムDTF社長LAN女史、業界の多くの人達にご支援いただきましたことを感謝しております。

食へのめざめ

特に妻には言葉でいえないほどの苦労を掛けてきました。妻、俊子は山梨県甲府の五味醤油会社の次女として1936年生れ、 父は軍人で満州事変で早くなくなり、母の手で育てられ、その後、 父の中学時代の友人内田代議士が後見人となり1960年25歳で結婚しました。
私には大きな夢(食での仕事)がありますので、家での生活費は私の得た金は使わず、 妻の得たお金で生活することに話し合って、早速それまで貯えた金、生家からの援助、 義兄からの援助金で酒販店を300万円で購入し、朝早くから夜遅く迄、男の子3人を育てながら頑張り、 現在山梨でも大きい方の酒販店になり、子供達も立派に成長し、長男はSANFOODSに次男は酒販店に、 三男は現在タイアッサンサービスに勤務しております。その間妻は
そのおかげで、私の夢が実現したのです。私の得たお金は、あまり道楽することなく全部会社設立に使う事が出来たのです。 現在日本に二社、タイ国に三社、ベトナム国に二社運営するまでになったのは妻のおかげです。 60歳を迎えた1995年社長を卒業出来たのも良い後輩が育ってくれたからです。 しかし、私は一つやり残したことがあります。それは食の仕事の中でも野菜の漬物加工をやっていないことです。 漬物加工をしなければ食の仕事をしたとは言えないと思いました。

食へのめざめ

ベトナムでの生活を始めますと、気候が良く野菜には適地と思われ、早速高原の町ダラットに行くことにしました。 ダラットは私が中学生の頃読んだ林芙美子の浮雲の世界でした。 ダビヤン高原の1600mの気候は年間同じで朝夜15℃から20℃、昼25℃~30℃と7℃の差が有り紫陽花が年間咲き、 キャベツ、白菜、カボチャ、ポテトなど生産しており、ベトナム国の農家では最高裕福の所です。 私は早速この地で漬物工場建設を始めました。友人達はなんで定年後も仕事を始めるのか、 日本に帰ってゆっくりしたらどうか等など、アドバイスをしてくれますし反対する人 々もございますが私としては定年は終わりではなく始まりであると思っております。 株式会社は株主に対して責任がありますので、私個人の貯えを使って、 私のやり残した仕事の漬物会社DTFを1998年スタートし、日本食文化の鮨用ガリ、 おでん用の大根を生産しております。

食へのめざめ

先にも書きましたように、私は山国の生まれで八珍果と言われるほど山梨には果物が豊富であり、 子供の頃からプドー、カキ、クリ、ウメ、モモを食べていました。特にウメとアンズは好物でした。 ベトナムには昔からウメは有りますが、日本で漬物にするような梅ではないので日本から梅の木を取り寄せてベトナムの野山に植林しました。 梅干、梅酒も近々生産可能になります。
ベトナムの会社の設立、役所との折衝、運営に当たり、 LAN女史には大変な力添えをいただき会社をスタートさせる事ができました。感謝しております。 これからはベトナムの若い人達に日本食文化の漬物製造指導をしていくつもりです。 人生はいつだってこれから。 これから始まると自分自身に言い聞かせて1999年7月25日、日曜日、 ダラットのホテルでペンを取りました。ダラットの町は今日も霧雨で紫陽花が昇しく咲いて目を楽しませてくれます。 道行く人はジャンパーに雨具姿で寒そうにしています。7月だと言うのに私もセーターを着て机に向かっています。 この地で作った日本食を世界に伝えようと、新しい夢をもって。
1999年7月25日
ダラットにて

食へのめざめ
1999年10月、第一線を退きようやく自分の時間がとれる生活になりました。以前より酒類、 食品が霊長類から人間になる過程でどのように造られたか、その歴
特に知りたかったのは、
  • エジプト時代の酒とパンについて
  • イスラム世界の酒はどうやって造られたか? パンは?
  • 現在も古代のカム酒を造っている南太平洋地方ミクロネシア、フィジーの見学
  • ペルーで造られている白ブランデー、ピスコについて
  • キューバのラム酒について
  • イタリア、スペインのワインについて

が主目的でした。
どの国でも古代から人間にとって酒と食は生命維持のために必要なものであり、 その国の風土にあった方法で造られていると実感しました。其の見聞をいずれ執筆したいと思っ ています。

食へのめざめ

2005年5月30日にはベトナムのTNK社が世界のWQC(WORLD QUALITY COMMITMEN1つのゴールド賞を受賞、 パリで行われた受賞式に出席しました。ISO認証会社としてベトナムより選ばれたことを光栄に思います。
その折、私の祖父が明治10年にワインの技術指導を受けたフランス  シャンパーニュトロワ市のデイモンド家を訪問し現当主のヘンリー氏と歓談、130年前の家や書物が大切に保守されているのに感激いたしました。 訪問を手配していただいた山梨県勝沼町にはお世話になりました。これからも生命ある限り、 日本の食文化を世界の人々に伝えるため頑張っていくつもりです。
2005年11月1日
70才を迎えて

バンコクの三河屋さん!お酒の宅配 店舗様向け業務用注文サイト
Shopping Online